様々な人との出会いに支えられて
予算も映画業界のコネもないところから出発し、素晴らしいスタッフ、スポンサー、プロデューサーに恵まれた初監督作品を撮ることができた、「 千代のお迎え 」
8月末には350もの映画が集まるパームスプリング映画祭の出場作品に選ばれた。
新進気鋭28歳の映画監督に話を聞いた。
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―小さい頃から映画監督になりたかったのですか?
高校までは音楽家になりたかったんです。4歳のころから音楽に目覚めて、世界の大舞台で演奏することを夢見ていました。
―何がきっかけで映画にひかれるようになったのですか?
実は7〜8歳のころから英語も習っていたんですよ。両親の教育方針で、「これからは国際社会だから」って(笑)。それで小さい頃から英語を話していて海外の人と交流することも多かったです。
それで、高校2年で進路を決める時期になって、「音楽をとるか、英語をとるか」ということになったんです。結局英語をとって、上智大学の英文科に入りました。映画の字幕翻訳を書く仕事に興味を持っていたんです。
―英文科なら、字幕翻訳業に興味を持つのは自然な流れですね。
ええ、戸田奈津子さんとかに憧れを持っていました。上智には映画のクラスもあったりして、UCLAからケニーという日系アメリカ人の教授も来ていたんです。ケニーの映画のクラスでは、大まかに映画の批評から、制作のことについてまで習いました。プロダクションのクラスではかなり「映画制作・映画監督」の醍醐味を伝えられましたね。
また、大学では英語のクラブに入っていて、夏のキャンプでちょっとした演劇で舞台監督もしたり。そういう小さな経験などもきっかけで、映画監督を目指すことになりました。
それで大学卒業後の最終的な進路を考える時期が来て、また二者択一ですね(笑)。「翻訳か、映画監督か」って。それで翻訳の教授に聞くと「翻訳家は食えないぞ」って言われて。本人も笑っていましたが(笑)
対象的にUCLAの映画の教授はポジティブな意見で、「どうせ本格的にやるなら映画のメッカであるロサンゼルスに行ってみたら」とアドバイスしてくれたんです。それで、大学4年生になって卒業後すぐにアメリカに行くことに決めました。
―アメリカではUCLAエクステンションに行かれていたそうですね。
はい。エクステンションのことはよくわからなかったのですが、ケニーから、このプログラムのことを聞いて興味を持ちました。一年半ほどで20クラスほどとりました。それでサーティフィケーションをもらい、オプティカル・トレーニング期間中の一番時間がある間にとりあえず作品を撮ろう、と思ったんです。
―スタッフとか、資金調達の当てはあったのですか?
最初お金も知り合いも全くないところから始めました。UC:LAエクステンションのクラスでもどうやってお金を集めてくるなんて教えてくれなかったし(笑)。
でもとにかく脚本をつくらなきゃってことで大まかなストーリーを書きました。それからインディペンダントフィルムで成功している人の話を聞いたほうがいいと思い、アメリカ人で日本に興味のある監督や、日本を舞台にして映画を撮った人をインターネットで検索してみたのです。
そこでカンヌ映画祭でパルムドール賞をとった日本をテーマにした映画「おはぎ」に関わった監督・プロジューサーを見つけました。実は僕、「おはぎ」をアメリカン・ショートショートという日本のショートフィルムの映画祭で観ていたのです。
「おはぎ」は天皇制を扱ったものなんですけど、日本人としては「アメリカ人のくせにいいものをとるじゃん」という感想を持っていたし、良い意味で敵対心のようなものを感じたことを覚えていました。
それで「おはぎ」をどうやって撮影したかなどの記事を読み進んでいったら、最後に監督・プロデューサーのデービット・グリーンスパンの連絡先が書いてあったんです。
それですぐにメールを出して「自分はこういう映画をつくりたいけど、誰でもいいから紹介してくれ」というようなことを書いて。そしたら次の日にメールで返事が帰ってきて! あらすじが読みたいってことで1週間後には会うことになったんです。
―すごい幸運ですね!
はい。それで会ったときも「誰でもいいから紹介してください」って頼んでいたんですけど、デービット自身があらすじをすごく気にいってくれて「僕もこういう映画をつくりたい」って!
それで「おはぎ」に関わったメインのアメリカ人スタッフや「こういう映画の企画があるけど興味のある人は彼に直接連絡してみてくれ」ってメッセージを添えた大量のグループメールを出してくれたんです。
―スタッフを集める上ですごい前進でしたね。その結果、どのような方がスタッフに加わったのですか?
「おはぎ」の脚本を書き、助監督も務めたデービット・クリス・ゼラーと16歳で渡米し、「おはぎ」の音楽を担当した鋒山ワタルさんです。鋒山さんは数々の映画の賞をとっているすごい方です。
今回の映画でプロデューサーをやってくれたジェイソン・アレンは僕と同世代でUCLAエクステンションに行っていたころから仲がよく、お互いに「映画をつくるときになったら絶対に一緒にやろう!」と言いあっていた仲だったんです。彼もヒューストン国際映画祭で金賞をとった実力派。
カメラ担当の谷田ヤス君は僕の一歳下なんですけどすごくバイタリティもあって、UCLAのショートフィルムのコンテストやKODAKの映画のコンテストで最優秀賞をとっています。
生まれて初めて書いたビジネスプランで
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―メインのスタッフを集めた後は資金集めですね。スポンサーがついたと聞きましたが、どのようにして探されたのですか?
アメリカでは短編映画はお金にならないということで(笑)スポンサーを探すのはなかなか難しいです。それで、また頭を切り替えて、「日本にだったらいるんじゃないか」と思ったんです。
それで、僕の知り合いに東京でビジネス学校の先生をしている人がいたのですが、その人が、投資などを勉強しにきているような、お金のある人でアートに興味のある人をあたってみたらどうかと言ってくれたのです。
それで、2003年の7月に日本に帰って映画のポートフォリオ(イラストレーション、ストーリー、スタッフの紹介文、など)を持っていって投資家探しを始めました。最初にあったビジネスマンの方に「どうやってお金を返してくれるの?」「ビジネスプランをつくって次会うときに持ってきてくれる?」と言われて、ビジネスプランのびの字も知らなかった僕はまたインターネット検索したり、友達に聞いたりして(笑)一生懸命プランを作りました。
―ビジネスプランにはどんなことを書いたのですか?
短編映画をつくる目的としては、映画祭に出展できるということですね。またお金が得られる方法としては、TVで放映したときの放映料とか、あとはリメイクされたときにもリメイク件としてお金が入ってくるということなどです。実際には、使ったお金を回収するだけでもすごく大変なことですけれどね。
―それで、結果は?
僕としてはこの人でだめだったらまた次を探そうと思っていたのですが、結局この方がすごく感動されて。短編映画のわりにはかなりの額をスポンサーしてくれることになりました。
―またまた一人目で! とんとん拍子に進んでいったんですね。
ええ。それで次にすることはロケーションを決めることと、役者のオーディションですね。ロケ地は京都にしました。京都は伝統的な街並みが揃っているし、映画の町なので撮影の機材とかを得られやすいのです。
オーディションは、デービットの知り合いのつてで京都にいるイギリス人に会ってみたら、と言われて会いに行ったらその人が大阪のCMディレクターを紹介してくれて。今度はその人が大阪の大御所女性プロデューサーを紹介してくれて。
その大御所プロデューサーが京都で子役を育てている「香住プロダクション」というところを紹介してくれたんです。結局そこで全部オーディションさせてもらいました。まさに、一期一会、ですね。
―主役の女の子はウエブサイトの写真で見るだけでも存在感のある子ですね。
ええ。みゆちゃんという子なのですが、彼女はそのとき4歳で、主人公の千代の役は10歳という設定でした。なので、最初は眼中外(笑)。
しかし、オーディションをしていくうちに、10歳の子が「お父ちゃん」って呼んでもぴんと来ないってことに気がついたのです。4歳から14歳までの子をオーディションしたのですが、みゆちゃんは4歳という年齢でも戦争でお父さんが遠くに行ってしまったという女の子の気持ちを理解しているようでした。「ほたるの墓」を観ていてくれたそうで、戦争や人の命のことについて敏感になっていたのでしょうね。それで「失敗したら失敗したでいいからみゆちゃんを使ってみよう」ということになったんです。
―実際にはみゆちゃんを主役にしてみてどうでしたか?
すばらしかったです。彼女は台詞を間違えないし、忘れたとしても自分でつくってしまうんです。アクションって言って泣く場面だと本当に泣いてくれるし(笑)
香住プロダクションがもともと時代劇専門だということもあって、かなり厳しいのです。みゆちゃんはそこにもう1年くらい入ってましたから。返事も「はい」っていう返事で(笑)お母さんも女優さんだったというから、そういう影響もあると思うんですけど。
―初監督ということで、苦労された部分も多かったと思いますが。
いろんなミスをしましたね(笑)例えばお金が足りなくなったこと。「予期せぬ出費があるから予算を余裕を持って組むように」ということをデービットから言われていたんですが……。考えが足りなかったです。
―予期せぬ出費って例えばどんなものがあったんですか?
例えば機材が動かなくなったりして撮影が予定していた5日間以内に終わらなくて……交通費代、宿泊代、スタッフの食事代など、たくさんの人数の人が関わっていますので、一日延期するだけでもそれなりの金額になってしまいます。
他には、メインのスタッフはアメリカ人で、あと交通整理とか色んなサポートをしてくれる日本人のスタッフも京都の方が参加してくれたのですが、色々な面でアメリカ人とコミュニケーションをとるのも難しかったと思いますし……
あと、日本とアメリカの映画制作のあり方が違いますよね。日本では依然として年功序列制のようなものがあるみたいで、ヤス君が10代後半のころからカメラを握っていたことを聞くと、みんな驚いていました。
日本ではアメリカと違って照明とカメラが分かれていますので、カメラが照明のあて方を指示するわけではないのです。しかし、今回の照明さんたちは、依然アメリカ人と働いていたことがあったみたいで……アメリカでのやり方を理解してくれていたので問題はありませんでした。すごく助かりましたね。
映画監督個人としての苦労としては、理想というか、こういう絵を撮りたいという自分のこだわりと、現実に撮れる絵が違っている、という、ずれがありましたね。
例えば、僕は五重塔を背景として使いたかったのですが、五重塔のある場所が他に必要な景色を持っている場所から離れていたりして。映画って機材をトラックから出してセットアップするだけでも時間がかかるので、自分ではどうしても五重塔じゃなきゃだめだ、って思っていたのでそれを諦めるのはつらかったですね。
でももっと経験している人に「映画ってそういうものだよ」って言われて……。結局予算的に黒谷寺というところの一重の塔を使ってやることになりました。黒谷寺にはお墓、池、お寺、そしてアーティストを支援しているお坊さんがいて、「千代のお迎え」に必要なものが全部揃っていたんです。
そこのお寺はジャズの生演奏を庭園でやらせてくれたりアーティストをサポートしてくれるお寺なんです。結局そこの住職さんもお坊さんの役として映画に出てもらいました(笑)お経を読むシーンでは……さすが本職でしたね。
あと、アニメーションで「カエル」を入れるシーンもあって。大変でした。やっぱり特殊な技能がいる分野では、実際に経験している人が必要ですね。アニメーションをやってくれたじゅんさんも、実際のライブアクション映画にアニメーションを入れるのは初めてだったようで。僕ももちろん初めてですし。
そのシーンを撮るのに一体どうやって役者に指示したらいいのか、そういうことの知識もなかったですし。かなりの試行錯誤ではありました。でも、じゅんさんは、すごくがんばってくれて、結果、神様らしいキュートな(笑)3Dのカエルが出来上がったと思います。
―紆余曲折はありましたが、ようやく映画が完成して、そして8月末に行われるパームスプリング映画祭の出場作品に選ばれましたね!
ストーリーは普遍的なものだと思うのですが、1940年代の日本が舞台ですので文化的な内容を理解するのが難しいかも痴れませんね……しかも台詞は日本語で英語の字幕ですので、どれだけアメリカの観客に受け止めてもらえるかな、と。でも多くの人に見てもらいたいので、これからも他の場所で上映される機会があることを願っています。
―「千代のお迎え」では戦争がテーマになっていますが、それを選んだ理由は?
僕が渡米したのが2001年の8月17日。ちょうどすぐ後に9・11のテロが起こって、UC:LA近くの連邦政府の建物の前では連日のようにデモが行われていました。人々の対応もそれぞれで、水と油ではないけど、戦争反対の人もいれば、どうでもいいと思っている人もいて、いろいろと考えさせられました。
今回の映画は、子どもからの視点の映画だし、暴力的なものは入っていないので、みんな「きれいだった」と言ってくれる方が多いんですけれど、じつは、むしろ残虐な話かもしれません。詳しい内容は、映画をご覧ください!
―今後はどのような映画を撮っていきたいですか?
長編映画ですね。日本人の感性をいかした映画で、アート性とエンターテイメント性のある映画ですね。日本人の感性を生かしたいっていうのは、僕日本人だから日本の和を生かしたストーリーのあるものを作りたいと思うんです。宮崎駿さんの作品はどの話もユニバーサルで、別にアメリカ人に受けようと思って作ったんじゃないと思うんですよね。ストーリーが一番大切だと思うんで、ちゃんとストーリー性のあるものをつくっていきたいです。
あとは、「バグダッド・カフェ」のような、普通の話なんだけれど、でも、どこか不思議な雰囲気の漂う、そして、視覚効果が適度に使われているような映画も大好きです。でも映画って見るのと作るのも似ているようで、そのときの気持ちとか感情とかで変わると思います。だからもしかしたら、将来ホラーとかアクションものも撮りたいって思うかもしれませんね。(笑)
―最後に、映画監督を目指している方に向けてアドバイスをお願いします。
まず、何事も諦めない、ということですね。とにかく撮り続けること。撮り続けたいと思うこと。情熱を持ち続けること。どんなアドバイスにもちゃんと耳を傾けることですかね。もしろんネガティブなことを言われることの方が多いと思いますが、その中でも役に立つアドバイスは必ずあります。そういう判断力も大切ですね。
それから、「どんなに大変な時でもスマイルでいればいい」。これは「千代のお迎え」の撮影中、僕にとって修羅場というか大変つらいときに僕の尊敬する日本の元持プロデューサーがポロっと言ってくれた何気ない一言だったんですが、改めて大切なことだなあと思いました。大変なときほど監督が明るい顔をしていると「笑う門には福来る」ではないですけど、まわりが活気付くんじゃないかと思います。
あとは、僕は、いつまでも、一期一会の精神を大切にしていきたいと思っています。若いときって何でも一人でできるって思うことも多いと思うんですけど、やはり人とのつながりがとても大切です。映画は一人では作れませんから。
―エキサイティングなお話をどうもありがとうございました! これからのさらなるご活躍を期待しています!
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